一等船客として

医者 (ぢれて)兎に角、マルタンのところへ行つたらね、今夜、勝負をするからつていつてくれ。患者 (益々苦しさうに)先生、大丈夫ですか。なんだか、針が折れたやうです。医者 (一寸振り返つて見て、それには答へず)遅くなると承知しないよ。おい、………(キツスの音)患者 (泣きだしさうになり)痛いです、先生……。医者 (やうやく元の位置に復し)まだ半分もはひりませんよ。[#ここで字下げ終わり]          ★ 僕はマルセイユから、フランスMM会社の汽船ポルトスに乗つた。 一等船客としては、某国の侯爵が愛妻の遺骨を護つて帰朝の途にある。 二等船客として、S銀行の行員Xが、時々甲板の手すりに矮躯をもたせかけてゐる。 三等船客の僕は、同室のギリシャ商人がのべつに歌ふ鼻唄にごう[#「ごう」に傍点]を煮やし、お歯黒をつけた安南の美女に、果敢ない想ひを寄せてゐた。 支那学生の一団が、常に甲板の一隅で議論を戦はしてゐる。 植民地ゆきの軍曹夫婦が、腕を組んで食後の散歩をする。 ポオトセエドで船を下りたアラビヤ人は、絶えず呪文を唱へてゐるやうに見えた。 僕は甲板に出るごとに、予備大佐と自称するルウマニヤの綿布商人につかまつた。彼は日本の官憲が、小国の人民に対して横柄であり、大国の人民に対して慇懃を極めてゐる態度に憤慨した。ヨオロツパのいはゆる小国間に、日本の勢望が頓に失はれつつあることを説いた。彼はまた、世界の人肉市場について驚くべき博識を披瀝した。彼は、船客の誰彼を相手にポオカアの勝負をいどみ、もの凄い腕並みを見せた。彼は、寄港地の到るところに「行きつけの穴」をもつてゐた。 船が上海を出るといふ朝である。この男は上陸したまま帰つて来なかつた。彼の手荷物を陸に残して、船は碇を巻いた。

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